December 10, 2004 12:00 AM書くということと映画の関係 2(December 07よりつづく) しかし、作家という登場人物が果たして「絵」になるかというと、大いに疑問だ。想像してみてもらいたい。作家という仕事の一番の見せ場は、やはり文章を書いているところだというのは万目の一致するところだとは思うのだが、それが絵としてはどうだろうか? ペン、タイプライター、PCという違いはあれど基本的には机に向かって、黙々と文章を書き続けているだけである。映画やドラマの場合は延々書いているフリをするだけだ。しゃべりもしない。演出できるとしても、額に汗をかかせるとかが関の山で、興奮して鼻血なんか出したらおかしいし。とにかく、文章を書いている所は絵にならないのである。 では、作家が主人公の映画はその問題をどのようにしてクリアしているのだろうか?今回は「2046」「バートン・フィンク」「裸のランチ」という3作品を例にとって、作家がどのように描かれているかを検証していきたい。 まずは舞台装置。作家が文章を書くという空間を創出するためには少なくとも、次の2つのものが必要となる。筆記用具と書く場所だ。書くという行為の描写自体が退屈なものになりがちなため、これらのものに変化をつけることで演出する必要が出てくるし、実際に良く工夫されたものとなっている。 舞台は「2046」の場合、タイトルそのまま2046号室という長期滞在型ホテルの部屋だ。ここは主人公が仕事場として借りている場所であると同時に、彼自身が書いている小説の物語の重要な結節点でもある。現実と架空の世界が接する場所みたいな感じで2046号室は描かれる。描写としても、実際のホテルというよりは何か非現実的な場所といった雰囲気を湛えている。「バートン・フィンク」の場合、LAにあるアール・ホテルという古びたB級ホテルが舞台なのであるが、もうこのホテルがもう1人の主人公といってもいいほどに執拗に描写される。舞台は'41年なので、エアコンなどまだ無い。机に小さい扇風機が一個置いてあるだけなので、当然のことながら暑い。あまりに暑すぎて、壁紙を貼った接着剤が溶けて剥がれてきてしまう。このベロリと剥がれる壁紙と異臭を発する精液のような接着剤が不気味かつ不快感を催す。壁は薄く隣からは不気味な笑い声やセックスをする音が聞こえてくる。洗面台のパイプは詰まって、すぐに水が溢れてきてしまう。ここで主人公は脚本を仕上げるために奮闘するのであるが、予想通りというか、作業は全く捗らない。それどころか、とんでもない事件に巻き込まれることになる。「裸のランチ」の場合はタンジールがモデルになっている「インターゾーン」に借りたアパートと思われる部屋が舞台だ。この作品に関しては、部屋の描写において特に書くべきことはない。 コメント
「独り」で何かを書き上げてゆくというのは、 ただし、作家さんってやっぱりかっこいい!って コメントする
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