December 31, 2004 10:05 PMDecember 31, 2004 12:00 AM2004年オルタ・エディターズ・アワーズ 下(December 28よりつづく) ベスト治療は7月に受けたガンマナイフだね。脳に転移という最も恐れていた状況になったのにもかかわらず、2泊3日の入院で治療を終えてしまった。ベスト治療であると同時にワースト治療体験でもあって。頭に麻酔を打たれてキリみたいなので穴を開けられて固定されたりとか、治療体験としてはこれまでで最も恐怖と苦痛を伴うものだった。でも、放射線治療で起きる脱毛などの副作用もなかったし、一度で治療が終わってしまうというのも素晴らしいものだった。 あと、今年行った治療で不発に終わったもので(ほとんど不発なのだが)イレッサがあった。一ヶ月ほど入院して経過を見ながら投薬を受けたのだが、ほとんど効果は見られなかった。最高に奏効すれば一発逆転に近い状況になる可能性もあったので、とても残念だった。治療としてもクスリを飲むだけという楽なものだったので、うまくいけば本当に負担が少なくて良かったのだ。 今年のベスト苦痛アワードはまだ記憶にも新しい急性膵炎によるものだ。11月のおわりくらいに行ったツーリングのあたりから痛み出して、その日の夜には声も出ず息もできないぐらいの激痛に襲われた。もうそれこそ、劣化ウラン弾が腹の中で炸裂、もしくは腹の中で核融合でも起きているのではないかという激痛だった。これのおかげで、モルヒネを使うようになってしまい、今では毎晩寝る前の楽しみになってしまっている。しかも、だんだん効かなくなってきている。 ということで、ベストドラッグアワードはモルヒネ。 ベスト取材アワードはDVDクラブのコールド・カットの取材。大物外タレを取材させてもらえたのもうれしかったが、メンバーがやたら面白い連中だったのも良かった。 ライヴやイベントはほとんど何も行っていないので、ノミネートもナシ。 他には昨日放映されたばかりなんだけれども、ゼネジャンにまた出られたのも良かったかな。 そして、今年最大級に自分に賛辞を送りたいのは小説を一本書き上げたことだ。これは、本当に自分がこの一年間を生き抜くことができたことの次に凄いことで。何しろ自分の命、魂、センス、テクニック、こだわり、時間などすべてを約3ヶ月に渡って注ぎ込んだ訳で。これまで沢山文章を書いてきたけれども、原稿用紙500枚以上も書いたなんていうのも初めてだったし、しかもそれを完全極秘裏に進めていたというのも初めての経験だった。何しろ、499枚書いても途中でバイクで事故ったりしたら日の目を見ないのである。それは死ぬのと同じくらいに怖くて、それの恐怖をプレッシャーにして必死に書き進めた。だからこそ、こんな短期間にこれだけの長さの作品を一気に書き上げることができたのだと思う。 まあ、あとはアレだな。この一年間を何とか生き抜くことができた自分は賞以上ってことでアワードレス!! サ母を初めいろいろ力を貸してくれた家族や友人に感謝。そして、もちろんこの「ガンエヴォ」を読んでくれている読者の皆さんにも!! それでは、また来年お会いしましょう。良いお年を!!! December 30, 2004 12:00 PMDecember 28, 2004 05:05 PM気になる!テレビ出演も2度目だし、割と自分の写真もアップするようになったので、オレがどんな風貌をしているかは、声とかは別としてだいたいの読者は把握していると思います。 けれども、中には「今回初めて、姿を見た」という方も多い訳で、そういう方の中には「文章から想像していたのとは、全然違った!」という感想が少なくない訳ですよ!!! そのような方達や他の読者の方にもぜひ聞きたいのだけれども、文章から受ける印象とテレビで受けた印象のどの辺がちがったのでしょうか? 良くあるのは「もっと、凶暴そうで、怖い人かと思っていました」というもの。文章から想像すると納得なのですが。 「思ったよりマシ」とか「想像より格好悪くて、ガッカリ」とか、逆にイメージとピッタリだったとか、感想を聞かせて頂きたいです。ナイーヴな内容なので、あんまり傷つくようなコメントは出来れば勘弁で(笑) December 28, 2004 12:00 PM2004年オルタ・エディターズ・アワーズ 上この時期この季節になると、はやり避けて通れないのはこのネタかと。毎回、ガンエヴォのコラムはネタ出しにそれこそ七転八倒しているので、このような季節ネタがあるというのは本当にありがたい話で。 本来ならば一年分の日記とガンエヴォを再読して、その中から大きな出来事をピックアップして語っていくのが求められているカタチだとは思う。でも、病院に苦労して持っていって一枚も読めないままに、また苦労して持ち帰った大量のガンエヴォ用のゲラ(日記とガンエヴォのプリントアウト)をこれから年末年始にかけて読まなければならないことを考えると気が重い。 もちろん、それらを読み終えた後に書くのが一番いいのだが、それだと年明けになってしまいせっかくの季節感が失われてしまう。クリスマスケーキはクリスマスに食べるからこそ、おいしいのだ。 だから、今回は時系列や順序などは無視して、印象に残った出来事やモノをアワード形式で徒然なるままに書き記してみたい。 まず、今年のベストムービー。これは迷うことなく「イノセンス」。この作品ほど自分にストライクな作品は無かったし、繰り返して観た作品は無い。日記などでも何度も作品については語っているのでここでは書かないけれども、オッサン2人が主人公で美少女が出てこない近未来SFという激シブで緻密な設定、映像としての面白さ、ストーリー、どれをとっても非の打ち所がない。自分にもこういう緻密で隙のない作品が作れればと思った。 今年のベストDVDは「スターウォーズ・トリロジー・DVDボックス」ですな。正直言って、生きているうちに発売されないんじゃないかなと思っていたんだよね。それが、DTSという最高のフォーマットで発売されたのは本当に感動的だった。しかも、自宅の環境がこの作品を受け入れられるだけのものになっていたというのもタイミング的に良かった。さらには、パッケージとして一分の隙もない完璧な作りで。「リターン・オブ・ジェダイ」のラストに出てくる幽霊のアナキンがヘイデン・クリスチャンセンに入れ替わっていたり、さらなるブラッシュアップがなされていて最新のヴァージョンアップという感じなんだよね。ルーカスのこの辺の妥協のなさにも脱帽させられた。 ベストCDは何だろうなあ。それなりにCDは買っていたとは思うのだが、今すぐ思いつかない。今年一番のヘヴィーローテーションは一体何だったのだろうか? 去年だと間違いなくジャンキーXLが一番聴きまくったと断言できるんだけれど、今年はなあ。意外と「ロスト・イン・トランスレーション」のサントラあたりを聴いていたような気がする。作品は今ひとつだったけれども、サントラは抜群に良かった。あと、似合わないけれどもジャック・ジョンソンも結構聴いた。あ、でもこれは今年のリリースじゃないなあ。ベストCDはノミネートはあっても該当者無しということで。 ベストブックはドン・デリーロ「コズモポリス」。テクノロジーと資本主義、身体性と痛みみたいなデリーロのこれまで追及してきたテーマが分かりやすく読みやすいカタチでまとまった一冊。文句なしに面白かった。次点としては、ウィリアム・ギブスン「パターン・リコグニッション」。元々サイバーパンクの作家なんだけれども、舞台はすでに現代になっている。つまり、現代が近未来なんかより、よっぽどSF的であるっていうことなんだよね。初期の作品より、ストーリー展開や読みやすさが大幅にアップしているのでサクッと読める。でも、クールな描写は相変わらず。作家としての成熟を感じさせる一冊だった。相変わらず、表紙がダサいのは困りものだけれども。でも、昔の分かりにくい感じも懐かしい。 December 28, 2004 09:19 AMDecember 26, 2004 05:31 PMゼネジャン視聴&書き込みをありがとう!昨日は放送をリアルタイムで観ました。 自分の顔が巨大なプラズマディスプレイに映っているのを観るのは、なかなかシュールな経験でした。前回よりも、緊張しないで自分の話したいことをリラックスして話せたという感じでした。 参加者、番組製作スタッフ、そして、視聴者の皆さん、どうもお疲れさまでした&ありがとう。 奥山貴宏(alt-editor) December 26, 2004 12:45 AMDecember 24, 2004 11:14 PMDecember 24, 2004 11:11 PMDecember 24, 2004 01:00 AMテレビ情報12月25日の深夜(12月26日(日)0:56〜2:56 日本テレビ)、ゼネジャンで再び命ネタが放送されます。ジェネジャン!!年末SP “命”をテーマに徹底討論。前回のビデオとその続きの記録が結構長い尺で観られるので、ぜひとも楽しみにしておいて下さい。 December 24, 2004 12:00 AM個人的携帯ゲームクロニクル〜ゲーム&ウオッチから、PSPまで〜下(December 21よりつづく) これらの機種の登場によって新しいゲームをしたいときユーザーは必要最低限の投資、つまり新しいソフト代だけでゲームができるようになった。いちいち、液晶や電源の付いた新しい本体を買わなくても良くなったのだ。これは純粋に喜ぶべきことなのだと思う。 ただ、オレのような古いゲーマーからすると少しさびしく感じるというのが今回の趣旨だ。なるほど、歴代のゲームボーイや今回発売されたNDSやPSPもソフトを交換することによって沢山のゲームを遊ぶことができる。それは素晴らしいことだと思う。しかし、携帯ゲームマシンだけではないのだけれども、ゲームマシンの多くがそのような単なるソフト再生プレーヤーと化してしまっていて、ゲームソフト自体の個性などは本体からは全く主張されなくなってしまったのだ。 例えば、昔あったタカラの「モンスターパニック」というゲームなんかは液晶画面の個性ももちろんのことながらボディにもモンスターの絵が細かく描かれていて見ているだけで楽しかった。そして、それは持っているだけでも楽しかったのだ。ゲーム&ウオッチの2画面と十字キーを採用した「ドンキーコング」なども、ゲーム内容とボディともにとても個性的で持っているだけでうれしくなるようなものだった。また、コレクションしたくなるアイテムでもあって、現在でもコレクターは沢山いる。それぐらい魅力的なのだ。 逆にゲームボーイなどのカセット方式になった本体はどうだろう。いろんなゲームをプレイすることを想定されているために、デザインは最大公約数的なものになってしまい実につまらない。ゲームボーイの本体に愛着を持てないのと同様に、カセットにも愛着が持てない。スロットの形状に合わせてすべて同じデザインで、違うのは貼ってあるシールくらいのものなのである。 携帯ゲームマシン一台で沢山のゲームができるようになった反面、ユーザーは個々のゲーム機を集めて愛でるという楽しみを奪われてしまった。ゲームのハードなどは数年に一台買えばいいようになってしまったからだ。そのような、状況下で今回のPSP発売は久しぶりに「このゲームマシンが欲しい」と思わせる出来事だった。通常なら、「ゲームはソフト次第」と言われ、ハードの出来不出来よりもソフトの完成度で選ぶべきなのは自分でも分かっている。それでも、久しぶりにPSPは「このゲーム機が欲しい」と昔のような気分になれるマシンだった。 だから、発売日に手に入れただけで満足してしまっているのが、心配なところではあるのだが。 December 23, 2004 06:56 PMDecember 22, 2004 08:35 AMDecember 21, 2004 12:50 AM個人的携帯ゲームクロニクル〜ゲーム&ウオッチから、PSPまで〜上去る12月12日、ソニーより携帯ゲーム機の最新機種「PSP(プレイステーション・ポータブル)」が発売になり、運良く発売日に入手することに成功した。UMDと呼ばれるMDの様なディスクを記録メディアに採用し、大型液晶、無線LAN、メモリースティックスロット、メディアプレーヤー機能など、ゲーム以外にも機能をアピールするような機体になっている。 本体の重量は携帯ゲームとしては少し重くズシリと感じる。寝ながらゲームをしていると少々重たく感じる。操作性はアナログコントローラを装備しており、極めて良好。ただし、アナログコントローラの位置が本体の下側にあるために、手が少しつりそうになる。だが、この辺は慣れれば問題なさそうだ。 メディアプレーヤーとしてはソニー・エリクソンの携帯SO505iSで記録したメモリースティックの階層をそのまま認識するので、共用することができた。映像に関しては独自フォーマットに有料のソフトで変換する必要があるので、今ひとつ面倒くさく使い勝手が良くない。 本体と同時に「リッジレーサー」を購入した。「グランツーリスモ」の様ないわゆる「レーシング・シュミレータ」とは全く逆の路線でリアルさよりもゲーム性を重視したソフト。PS2版もプレイしたことがあったのだが、フルポリゴンで成型された車体、細かく描き込まれた風景とスピード感。携帯ゲームでよくぞここまで3D表現を実現したものだと感心する出来映えだ。 ピアノブラックによる全面クリア仕上げと高い質感と剛性感。今後、携帯ゲームシーンがどのように変化していくのか、また、どのようなソフトが発売されるかによって運命は変わっていくと思われるがハード的にひとつの到達点にあると言っていい機体だ。 今回は、このPSPを入手したのを機に自分のこれまでの携帯ゲーム史を遡ってみたい。尚、あくまでも携帯マシンということでファミコンなどの家庭用ビデオゲームはまた機会を改めて書くとする。 さて、一番最初に携帯ゲームを手にしたのはいつ頃だろう。まず、この携帯ゲームという呼び方は最初は存在しなかった。なぜなら据え置き型のテレビゲームが登場するまで、基本的には電子ゲームはすべて携帯タイプだったのだ。任天堂からゲーム&ウオッチが'80年に発売になる以前はLEDを使ったゲームが主流だった。LEDの赤いドットをボールに見立てて、野球やテニスなどのゲームがあった。その後、LSIゲームというカラー画面の電子ゲームが登場。ただし、携帯できるとはいえポケットに入るサイズではなく、持って移動できるという程度のものだった。 本格的に携帯ゲームと呼べるようになったのはやはり、'80年に登場したゲーム&ウオッチが最初だと言っていいだろう。シャープの電卓にヒントを得て開発されたこのゲームマシンはこれまでのもののようにLEDなどは使わずに時計や電卓のような液晶を使用した。これによって、真の意味で携帯できるポケッタブルなゲームが登場した。 当時で5800円という価格設定といい、元々大人をターゲットにして発売された商品だったが、瞬く間に子供にも飛び火。あらゆる玩具メーカーが亜流を出すまでに至った。そして、各メーカーがゲーム内容、筐体のデザイン共に趣向を凝らしたものを次々と発売する。こういった液晶のゲームは誰もが必ず一台は持っていたのではないかと思う。 今回、こういったゲーム機に着目したのは単なるノスタルジックではない。今のゲームマシンと当時のゲームマシンで決定的に違っている点がある。それは何だろうか? ゲームソフトの交換ができるかできないかなのである。昔のゲーム&ウオッチは1コに付き1つのゲームしか基本的にできなかった。つまり、コントローラ、液晶画面、電池、ボディとゲームをするためのパッケージがひとつで完結してしまっていたのだ。だから、新しいゲームを買うということは、全く新しい個体を新しく購入することを意味した。つまり、言ってみればPCでゲームをするのに、毎回PC本体と液晶ディスプレイごと買い換えている様なものである。 つづく December 20, 2004 10:21 PMDecember 19, 2004 11:46 AMDecember 18, 2004 08:04 PMDecember 18, 2004 08:01 PMDecember 17, 2004 02:00 PMさらにさらに速報!遂に小説のVer.1.0がローンチ!!!!!! 出版社や関係者各位に評価版を送付中。 出版時に変わるかもしれないけれど、コードネーム「SLUG」(ナメクジ)だった小説のタイトルは「ヴァニシング・ポイント」に決定!!!!! 読者の皆さんはタイトルから中身を想像してみてください。そして、優秀な出版社から拾われて、作品が日の目を見ることを祈っていてください。 December 17, 2004 12:00 AM書くということと映画の関係 4それでは、一番重要な問題について書くとしよう。それは「書く」という行為が作品中でどのように作用するかということだ。何しろ、絵になりにくい作家や脚本家を主人公にしているくらいなので、当然「書く」という行為に重要な役割を担わせている。「2046」では小説を書くという行為をコミュニケーションツールにしている。主人公は身近な女性登場人物に口述筆記の手伝いをさせたり、物語を一緒に考えてもらったりして交流を深める。通常、小説を書くという行為は孤独なものだし、当然そういう描写が多いので、「2046」の例は極めて珍しいと言える。「バートン・フィンク」では、脚本を書き終えることは地獄からの脱出を意味する。ホテルとキャピトル映画の社長からの過剰なプレッシャーという2つの地獄から脱出するためには、脚本を書き終えるしかないのだ。「裸のランチ」では書くことによって、主人公が自分を取り戻していく。幻覚をみながら書いた支離滅裂な文章をケルアックやギンズバーグといった友人達が原稿を整理してくれて、「裸のランチ」という作品にまとめることによって主人公は作家になることができる。 これらの作品の主人公達と書くということの関連性を自分に置き換えて考えてみよう。「書くという行為をコミュニケーションツールにしているか」という点では、ブログや日記で書いた文章によってコミュニケーションしているけれども、書くという行為そのものではコミュニケーションしていない。アイディアを出し合ったりとか、共作とかをしていないからである。書くという行為はむしろ孤独と向き合うような作業だと考えているというか、位置づけられる。次に「書くことによって地獄から脱出する」というものだ。これは当然、自分にも締め切りがあるし、「バートン・フィンク」ほど極端ではないにせよ当てはまる。特にこのコラムを書く時が顕著なんだけれども、とにかくネタが思い浮かばない。部屋の中で時間だけが無駄に過ぎていく。この作品はコーエン兄弟が「ミラーズ・クロッシング」の脚本執筆中に陥ったスランプが元になっているのだけれども、書けない苦しみが本当にリアルに表現されている。「裸のランチ」の「自分を取り戻す」というのには大いに共感する。ジャンキーじゃないけれども、ガン患者に成り下がった自分が唯一心に支えにできたのが文章を書くという行為だったからだ。鎮痛剤でヘロインを処方されたので、本当に「裸のランチ」的な状況に陥りそうなのが笑えないところではあるのだが。 今回、このようなことを書いてみようと思ったのは、「ジェネジャン」に昨年出演した際に「フリーライターの日常」的な絵を撮ったのだけれども、全然カッコいいシーンが無くて。家でPCをいじっていたり、バイクに乗ったり、プロントで打ち合わせをしたりとか、絵的にはつまらないものばかりで。逆にオレの方が「こんなんでいいの」と心配になるくらいだった。 そういった問題を映画の作り手達はどのようにクリアして、どのように描いているのか興味があったからだ。書く道具もペン、タイプライター、PCと時代に合わせて変化してきている。部屋に籠もって小説を書く、なんていうスタイルはあっという間に古くさくなって、今後は電車の中でケータイを使って小説を書くような描写が出てくるのかもしれない。オレの場合、キーボードを使わないと長文は打てないので、無理だけれども。 December 16, 2004 08:37 PMさらに速報!来年の2月にアマゾンのeブックとして、「31歳ガン漂流」が翻訳出版されることになりました。 さらには、本ブログの英語版も来年早々に立ち上がる予定。 これで、英語圏の人にも自分の本を読んで貰える。完成したら、「アンダーワールド」やダグラス・クープランドにも本を送ろう。 尚、人気が出ればオーディオブック、ペーパーブックという展開もアリらしいので、夢は膨らむ。 December 15, 2004 11:30 PMDecember 14, 2004 12:00 AM書くということと映画の関係 3(December 10よりつづく) こういう虫的なプロップはそれこそデイビッド・クローネンバーグの独壇場といえるものだが、それにしてもこのアイディアは素晴らしいと思った。小説などの文章などを書いている場合、書き手の頭の中ではそれこそ脳内麻薬物質が出まくっているようなある種の興奮状態にある訳だが、外見にはタイプライターを打っているようにしか見えない。それをタイプライターが虫に見えるという幻覚を設定することによって、文章を書くという絵にならない行為を視覚的に興味深いものに置き換えることに成功している。 また、この喋ったり意思を持っているタイプライターというのは書き手、少なくとも自分にとっては夢の存在だ。自分の場合はPCになる訳だが、書く道具と対話したいという気持ちは強い。それはまるで普段、バイクを擬人化してみているのと近い感覚と言えるのかもしれない。原稿を書き終わったら、PCが「オチがイマイチ」とか「締め切り間にあったね」とか対話してくれたら楽しいのにと思う。実際にはうるさくなって、その機能をオフにしてしまう可能性もあるが。 他の要素としては、主人公達の服装が上げられる。実際の作家達がどのような格好で執筆活動をしているのかは正直分からない、と同時にとても興味深くもある。何しろ、自分の場合はユニクロのスエットを着て髪も髭もぼさぼさという全く絵にならない状態だからである。でも、実際には長時間イスに座って同じ姿勢を続けなければならないので、お腹を締め付けるような服装はとてもじゃないがしていられない。だから、自然とこのような寝間着同然の格好で執筆している。カッコ悪いけれども、執筆中は誰にも会わないしどこにも行かないのでこれが現実である。 さて、映画の中ではそうは行かない。トニー・レオンがユニクロのスエットを着ていたら、女性映画ファンは卒倒してしまうだろう。余談だが、トニー・レオンの来日時空港の映像では頭にしっかりと寝癖が付いていた。キュートだなと思うと同時に、何かリアリティのようなものを感じてしまった。「2046」では主人公は常にスーツを着て、髪をポマードで撫でつけビシッと決めている。前作「花様年華」ではまだ新聞記者と掛け持ちだったので普段からちゃんとした格好をしていてもおかしくはないのだが、「2046」では専業の作家になっているはず。それなのに、日常的にビシッと決めているのは凄い。だから、突然チャン・ツイイーが訪ねてきても、慌てないで済むのだ。「バートン・フィンク」でも、基本的にはシャツとパンツを着ている。暑くなってくるとだんだんランニング姿にはなるのだが、サスペンダー付きのパンツははいたままだ。「裸のランチ」もわりかしちゃんとした格好をしている。グダグダのジャンキーなのにである。ちゃんとした格好をすれば、ちゃんとした文章を書けるのかもしれないけれども、それを長時間続けるのは困難である。そういった意味で、作家が文章を書いているときの服装に関しては、さほど細かい設定は無いようである。 December 13, 2004 06:04 PMDecember 13, 2004 02:19 PMDecember 12, 2004 01:14 PMDecember 12, 2004 05:57 AMDecember 10, 2004 03:37 AMDecember 10, 2004 12:49 AMDecember 10, 2004 12:00 AM書くということと映画の関係 2(December 07よりつづく) しかし、作家という登場人物が果たして「絵」になるかというと、大いに疑問だ。想像してみてもらいたい。作家という仕事の一番の見せ場は、やはり文章を書いているところだというのは万目の一致するところだとは思うのだが、それが絵としてはどうだろうか? ペン、タイプライター、PCという違いはあれど基本的には机に向かって、黙々と文章を書き続けているだけである。映画やドラマの場合は延々書いているフリをするだけだ。しゃべりもしない。演出できるとしても、額に汗をかかせるとかが関の山で、興奮して鼻血なんか出したらおかしいし。とにかく、文章を書いている所は絵にならないのである。 では、作家が主人公の映画はその問題をどのようにしてクリアしているのだろうか?今回は「2046」「バートン・フィンク」「裸のランチ」という3作品を例にとって、作家がどのように描かれているかを検証していきたい。 まずは舞台装置。作家が文章を書くという空間を創出するためには少なくとも、次の2つのものが必要となる。筆記用具と書く場所だ。書くという行為の描写自体が退屈なものになりがちなため、これらのものに変化をつけることで演出する必要が出てくるし、実際に良く工夫されたものとなっている。 舞台は「2046」の場合、タイトルそのまま2046号室という長期滞在型ホテルの部屋だ。ここは主人公が仕事場として借りている場所であると同時に、彼自身が書いている小説の物語の重要な結節点でもある。現実と架空の世界が接する場所みたいな感じで2046号室は描かれる。描写としても、実際のホテルというよりは何か非現実的な場所といった雰囲気を湛えている。「バートン・フィンク」の場合、LAにあるアール・ホテルという古びたB級ホテルが舞台なのであるが、もうこのホテルがもう1人の主人公といってもいいほどに執拗に描写される。舞台は'41年なので、エアコンなどまだ無い。机に小さい扇風機が一個置いてあるだけなので、当然のことながら暑い。あまりに暑すぎて、壁紙を貼った接着剤が溶けて剥がれてきてしまう。このベロリと剥がれる壁紙と異臭を発する精液のような接着剤が不気味かつ不快感を催す。壁は薄く隣からは不気味な笑い声やセックスをする音が聞こえてくる。洗面台のパイプは詰まって、すぐに水が溢れてきてしまう。ここで主人公は脚本を仕上げるために奮闘するのであるが、予想通りというか、作業は全く捗らない。それどころか、とんでもない事件に巻き込まれることになる。「裸のランチ」の場合はタンジールがモデルになっている「インターゾーン」に借りたアパートと思われる部屋が舞台だ。この作品に関しては、部屋の描写において特に書くべきことはない。 December 07, 2004 12:00 AM書くということと映画の関係 1一応、文章を書いて禄を食んでいるので、映画で作家や脚本家など文章で生活している人間が出てくるとついつい観てしまう。 他の職業の人、例えば医師や教師の方なども自分と同じ職業がテレビや映画に出てくるとついつい見てしまうのではないだろうか。そして、「現実はこんなんじゃない」「リアルじゃないなあ」とか文句をつけながら。自分の場合は、文章を書くという仕事以外にも、編集者の経験もしているので、そういった職業の人が出てくるドラマなんかを観たりすることはある。 基本的にドラマや映画に出てくるそういった役の人達は現実とは往々にして違うことが多いと思うのだが、編集者のそれは遙かに現実離れしている場合が多かった。もちろん、そのドラマや映画がそういった「職業の人達の仕事ぶりをリアルに描写する」のが目的であるならともかく、物語を面白おかしく進めるための設定された場合、作り手によって都合の良いように脚色される。 ドラマに出てくる編集者で「これはリアルじゃないなあ」と思ったのは、演じている役者がきれいすぎるのである。これは顔の醜悪の問題ではなく、現場の格好をしていないというか。編集者は勤務時間が長いためにキツい格好、スーツなどを着ている場合は特別な場合を除いては少ないのだが、ドラマに出てくる編集者は大抵きれいな格好をしている。 さらには、舞台の一つとして出てくる編集部がきれいすぎる。これまで、編集者時代からライターの現在に至るまで様々な編集部にお邪魔してきたが、キレイにキッチリ整頓されている編集部は皆無だった。どこの編集部も机の上には雑誌のバックナンバーや資料が積み上がり、足元には読者からのハガキやもらい物のサンプルなどで足も入らないような状態になっている。もちろん、比較的片づいている編集部は存在したが(ファッション系は割ときれい好きかもしれ得ない)、それでもキレイというのとはちょっと違うと思う。 結局、それはどういうことかというと、編集者というお仕事はそのままでは「絵」になりにくいということなんだと思う。例えば、スーパードライのCMで編集者バージョンを考えてみるとしよう。スーパードライのCMとは各界で活躍する人達が活躍している様子を小気味よく編集したシリーズだ。活躍している様子というのは、すなわちその仕事における見せ場だ。医師だったら、難しい手術に成功したところや、診察しているシーンなどだろうか。教師なら熱い授業をしているシーンや、生徒と語らったりするところになるのだろう。でも、編集者のそういうハイライトシーンとなると思い浮かばない。仕事上の成功シーンは想像できる。編集している雑誌が売れたり、担当している作家が賞を取ったりするシーンだ。でも、日常の業務で「これが編集者の仕事だ!」っていうのがありそうでなかなか無いのである。 出版社は「電話が一台あれば始められる」仕事だといわれている。実際にはPCやファックスぐらいは必要になるだろうけれども、基本的にこの言葉は真実だ。電話で作家に原稿を依頼して、原稿をもらい、印刷屋に原稿を渡して本を作れば仕事は成立するのだ。編集者の日常の主な業務はといえば、基本は取材と打ち合わせだ。取材ほど編集者にとってエキサイティングな仕事はないと思うのだが、絵的にはただテープレコーダーを回して被取材者と喋っているだけである。また、重要な仕事である打ち合わせ。ベストセラーや雑誌の目玉企画も打ち合わせから生まれてくるのであるが、絵的には喫茶店でお茶を飲みながら喋っているか、メシでも食いながら喋っているだけである。 日常業務の中でいかにも編集者ならではのものといえば、印刷屋から上がってきた校正に赤入れをしている所ぐらいだろうか。それにしたって、相当地味な作業である。何しろ、机に向かって延々赤いボールペンで修正を入れているだけなのだから。とても、ドラマや映画のワンシーンとして成立できるとは思えない。 December 06, 2004 11:30 PMクリスマス今年のクリスマスが人生最後のクリスマスの可能性になる可能性が高いので、変な意地を張らずに素直に楽しもうかなと。 病院は多分外出できるので、ホームパーティでもしようかと考えているが。メンバーがシモダ君しか決まっていないのが痛いところ。 最近、読者から「いたい人になっている」「いたいブログにしないで下さい」とのコメントがあったけれど。このままだといたいクリスマスになってしまいそうだ… December 04, 2004 06:53 PMPSP予約失敗入院でのお慰みにPSPの購入を考えている。 ウェブでの受付はモタモタしているうちに全て逃してしまったので、今朝の新宿さくらやの予約に夜勤明けの弟・秀君を派遣したのだが、予約失敗。 なんと、7時15分の段階で一瞬ではけてしまったそう。30台しか無かったそうな。秀君の仕事が終わるのは9時過ぎだから。最初から無理だったという感じか。 例によって、出荷台数がやたら少なそうなので、発売日に手に入れるのは難しそうだ。 ということで、何かいい情報があったら、よろしくお願いします。 December 03, 2004 12:00 AM快適音楽生活に隠された影の歴史 4(November 30よりつづく) 最近はどんな音楽生活を送っているかというと、相変わらずCDは買っている。ショップに行く回数は減ったけれども、ショップに足を運んだときの情報量はネットでのそれを大いに上回る。たまにアマゾンでCDを買うことがあっても、基本的にはCDはショップで買っている。他には最近音楽ファイルをネットで買い始めた。これは、海外のレーベルが直営するサイトからクレジットカードを使ってMP3のファイルを買うというものだ。CDを買ったときのようにパッケージ、モノとしての商品は一切手に入らない。HD上にファイルが保存されるだけである。 価格は一曲から買えるがアルバム単位で買うと、1000円ちょっとで買える。同じCDが旧譜だったのにも関わらずショップで2400円もしたので、大いに得した気分だ。実際、もしCDを購入したとしても、すぐにPCに取り込んで聴くから、最初からファイルでも別にかまわないのだ。 そういった消費行動と同時に、昔のようなバックアップも行っている。友人から借りた大量のCDを一気にPCに取り込んだり、友人の家にノートPCとドライヴをもって上がり込んでコレクションをその場で大量にバックアップさせてもらったりすることもある。音楽は好きだしアーティストのことも尊敬しているが、別にパトロン志望ではない。同じようなモノでタダのモノと有料のモノがあったら、タダのモノに手をだす。それは、少しでも多くの音楽を大量に聴きたいという、音楽ファンとしてのプライマルな欲求からだ。アーティストの権利を進んで踏みにじりたいとは思わないが、音楽を沢山聴きたいという欲求の方がそれを上回る。 これまではバックアップは劣化と同義語だった。ラジオをエアチェックすればオリジナルよりは劣化するし、レコードを録音しても、カセットをダビングしても、CDをコピーしても同様だった。MDに録っても、音はフォーマット的にクオリティが下がる。つまり、これまで最高の音質で聴くためには、CDを買うしかなかったし、音楽を好きな人は基本的にそうしてきていたのだ。そして、それが間接的にコピーガードとして機能してきた訳だ。 しかし、PCの登場によって、圧縮率を下げないとCDクオリティそのままでバックアップがとれるようになってしまったし、バックアップを10回繰り返したとしてもデジタルの恩恵で全くデータが劣化しないで保存できる。劣化しなくなってしまったので、コピーガードと機能するものが無くなってしまったのだ。 このように、オレの20数年間における音楽ファンとしての歴史はバックアップとコピーの歴史だと言っても過言ではない。手書き文字からPC、ネットまであらゆる手段を駆使して、音楽のバックアップを取ろうとした苦難の歴史でもある。苦難と表現したけれども、その時はその時なりにその苦難を通して音楽を楽しんできたのも事実だ。 今後、光ファイバーの普及でギガbpsとかになれば、CDをそのままのクオリティどころか、DVDをそのままやりとりできるようになるだろう。そのような時代になって、音楽との付き合い方がどのように変化していくかが楽しみである。 また、自分も文章の書き手として著作権保持者側の意見を言わせてもらうと、自分の権利を守るためには、結局クオリティの高い作品を生み出していくしかないということだ。本だって、自分の本当に好きな作家の作品だったら、いくら友人から借りられたり、コピーが手に入ったり、ネット上で読めるとしても、本というパッケージで欲しいと思うだろう。逆にそれほどのクオリティで無ければ、オレの場合なんかまさにネットで読めばいいやということになるし、さらには読まなくてもいいやということになりかねない。 こういったことを避けるには権利などを主張するよりも、作品のクオリティを上げていく方が手っ取り早いのである。周りを変えていくのには大変な労力を要するが、自分が変わるのはそれ以下の労力で済むのだから。だから、作り手、送り手側の人間はひたすら時代やフォーマットが追いついてくる前に、ひたすらクオリティを上げていくしかないのだ。 それは、こうして言葉で書くほど簡単なことではないのだけれど。 December 01, 2004 08:19 PM |
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