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文:渡邊十絲子
 

渡邊十絲子の「詩人の悪だくみ〜第2レース〜」って?
「詩人」といえば、物静かに詩作に耽る・・・だけではないのです。
競艇をこよなく愛する美人詩人が送る、パワフルエッセイ。




第六十九回 世界の壁


  年末年始、いちばん困ることといったらTVである。
  わたしは非日常を嫌い、日常を愛する人間なので、年末年始にえんえんと続く特別番組や特別編成にはうんざりだ。二日や三日のことならばまあ我慢してもいいが、一週間近くも形式的に豪華で形式的にめでたいスカスカ番組を見せられると血圧が上昇して健康に問題が出る。かといって休みのあいだじゅうTVは見ないという立派な決意ももてない。
  そんな「TV難民」と化したわたしが辛うじてすがるのはもちろんスポーツ関連の番組で、だからこの年末年始もスポーツばっかり見ていた。サッカー、ラグビー、駅伝などは生中継を見たし、「2006年の総集編」みたいなものもたくさん見た。本日はそこで得た新発見をご報告します。

  世界の壁、というスポーツマスコミ用語がある。
  わたしは、この言葉をわりに普遍的なものだと思っていたが、じつはそうでもないのである。
  2006年、わたしの見聞きした範囲で、「世界の壁」というものの存在をいちばん熱心に語ったのはサッカーマスコミの人たちである。ほかの種目では、「世界の壁」という言葉はほとんど使用されなかった。たまに使用されたとしても、それは「世界の壁などと言っている状況ではない」という否定的な文脈である。ということは、サッカー以外のほぼすべての競技において、「世界の壁」は、現実的な問題としてとりあげられてはいないということである。
  それは、その種目における日本の実力が、世界大会でつねにメダル圏内にあるか、トップ10ぐらいなのか、はたまた世界のトップレベルのチームには赤子の手をひねるように負かされるレベルなのかということとは、無関係である。
  たとえば。
  自転車ロードレース、アイスホッケー、ハンドボール、テニスなどの種目では、日本チームまたは日本の選手が世界大会のたびにいつもメダルを狙うというようなことはまずない。つまり日本のレベルはまだまだである。
  こういう種目において「世界の壁」は現実のものである。だから「世界の壁にどう挑むか」「世界の壁を突破するために」という言いまわしが頻繁に登場しても、べつにおかしくはない。ところが実際には、こうした種目の人たちは「世界の壁」をあまり語らないのである。
  それはなぜなのか。
  思うに、そうした後進的な状況におかれた種目の人たちは、「世界の壁」なんていう漠然としたものを設定する暇なんかないのではないか。自分より世界ランキングで10位上の選手、いつもアジア大会の準決勝で日本を負かす国、といった具体的な「壁」はあっても、「世界の」なんてあいまいな「壁」はないのである。
  卓球の福原愛が「世界の壁」を意識するだろうか。そんなことは考えられない。彼女がもしも「壁」を語るとすれば、それは個別具体的な「世界ランク○位の○○選手という壁」以外ではないだろう。陸上長距離走の福士加代子が「世界の壁」を語るだろうか。これもまた考えられない。彼女がターゲットにしているのはつねに「エチオピアのスピード」「○○選手の残り400メートルのスパート」というようなものである。福原にせよ福士にせよ、揺るぎないトップ選手などではなく、まだ上を見ている選手である。でもそこには「世界の壁」という問題設定は存在しない。
  いっぽう、WBCという世界大会で日本代表チームが初代覇者となった野球、そもそも日本生まれの競技で「御家芸」とされている柔道などでも、「世界の壁」ということは言われない。
  柔道では、日本柔道がいかに弱くなったといっても、それでもまだ他の国々に対して「日本の壁」であらねばならない存在である。たとえ実力として横綱級ではなくても、「受けてたつ」態度が求められる。だからそもそも「世界の壁」という問題設定はありえないと思われる。
  また野球では、かりにWBCで優勝していなくても「日本の野球」が「世界の野球」の大きな一部分を占めていることは確実であり、「世界の野球」と言った場合に、その中には日本はもちろん、韓国、台湾などの野球も含まれるのが当たり前である。だから「日本対世界」という対立の構図は、描くことができないのである。

  こうして考えてみると、サッカーでしばしば言われる「世界の壁」という言葉の意味は、かなりあやしいものではないか。
  そもそも、「世界」が「壁」として意識されるということは、日本はその「世界」の外側にあるということである。
  それって明治時代の意識ではありませんか。日本はながく鎖国をしていたので、世界政治や世界経済の有機的つながりの外側にあった。だから鎖国をといて初めて他の国々と接したとき、「世界」というのはまさに「日本抜きの、日本を含まない世界」であった。そういう状況ならば、「日本対世界」という構図は成立する。そういうとらえ方も間違いではない。
  けれど現在、日本はまさに「世界の一部分」である。それで当たり前なんである。「世界のサッカー」という言葉は、ブータンやロシアやフィリピンやケニアのサッカーを含む。それらの国も「世界」を構成する一部分なんだから、当たり前である。
  けれどもサッカーマスコミで言われる「世界のサッカー」というのは、「サッカー強豪国」のことである。重箱の隅をつついているようだが、ここはとても大事なところだ。
  つまり、サッカーという競技世界においてとらえられている「日本対世界」の構図は、本当は「世界」の意味が違っていて、「日本対サッカーの強い国」という意味である。そしてそれが「対」という形で語られる以上、「日本はサッカーの強い国というグループの外側にいるばかりか、対立項となっている」ことになる。
  これは由々しき問題ではありませんか。
  この構図でサッカーの問題を語りつづけているうちは、日本はどうしたって「サッカーの強い国」のグループには入れない。言葉の重みって、そういうことである。日本のサッカーがまず目指すべきは、ブラジルやイングランドやドイツなどのサッカー強豪国をまとめて打ち負かすというような非現実的カミカゼ的な奇跡ではなくて、サッカーの強い国のグループに仲間入りして、日常的にそういうレベルでの争いに参加できるようになることだろう。だったら「サッカー強豪国」は日本の対立項にしてはいけない。その仲間に入れてもらえるように努力するべき目標である。だから「世界の壁」という言い方は、百害あって一利なし。問題の骨格をまるごと考えなおさなければ明るい未来はないと思う。

  正月休み明けの新聞に、かつての東大総長蓮實重彦氏がこんなことを書いていた。

  野球の日本シリーズで、おそらくは地力に勝るはずの中日ドラゴンズは日本ハムファイターズに負け、サッカーの天皇杯では、これもまた強いチームであるガンバ大阪が浦和レッズに負けた。勝ったチームがいずれも外国人監督なのは偶然ではないのではないか。そもそもスポーツに「監督」は必要ない。ヒルマンにせよブッフバルトにせよ、自分のことを「監督」とは思っていまい。彼らは「ヘッドコーチ」あるいは「チーフ・マネジャー」なのだ。そういうとらえ方が、短期決戦やトーナメント戦では効果を発揮するのではないか。われわれが日本代表を託したオシムも、「監督」と呼ばないほうがいいのではないか。「監督」は不吉である。

  蓮實氏の考え方も、スポーツを言葉の枠組みから考えるものだ。長期の選手育成やチームづくりをする場合には「監督」が力を発揮するのかもしれないが、この一戦で負けたら明日はないという状況を戦っていくには、チームを教え、導き、率いる立場の(つまりチームの外側にいて、それでありながら勝敗の責任を負わされる)監督は必要なくて、むしろ選手たち自身がチームを率いるほうが望ましい。自分を「ヘッドコーチ」だと思っている人は、チームの一員として、その中のひとつの役割を担っているだけの気持ちだろうから、チームの中側にいる。勝敗の責任もチーム全体にあるので、選手の自覚がより高度なものになりやすい。そういうよい点があるというのである。
  わたしもこの考え方には賛成だ。いずれにせよ、スポーツはどの競技もひとつの独立した文化なのであって、その文化をどのように育てていくかという枠組みを決めるのは、言葉である。サッカーの日本代表チームにもっと大きく育ってほしいなら、「世界の壁」などという歪んだ問題設定をしないことが大事だと思う。選手ひとりひとりに「あなた自身が世界のサッカーの一部だ」と繰り返し言ってあげるべきである。
  即効性はなくとも、言葉の威力は絶大なのである。

                              *

  突然ではありますが、この連載も、今回をもって最終回となりました。パブリデイの店じまいを、わたしもつい最近聞いたので、今回の原稿を書いた時点ではまだ最終回のつもりにはなっていませんでした。あまり最終回らしくない内容なのは、そのせいです。
  パブリデイの開幕から閉幕まで、無欠席で完走しました。ずっと併走してくださった読者のみなさまに、心からお礼を申し上げます。この連載の「第1レース」であったポプラビーチ時代から続けて読んでくださった方には、さらに重ねて感謝します。ありがとうございました。またどこかで第3レースを走る機会があれば、そのときはどうぞよろしく。


2007年1月26日更新
(隔週金曜日更新予定です)
 

Profile
渡邊十絲子(わたなべ・としこ)

1964年東京生まれ。詩人。早稲田大学文学部文芸専修卒。卒業制作の詩集で小野梓記念芸術賞を受賞。学習塾、予備校、通信添削、教材制作などを漂流しながら働く。詩集に『Fの残響』『千年の祈り』(以上、河出書房新社)『真夏、まぼろしの日没』(書肆山田)。得意技は金を賭けること、スポーツ観戦、書店のハシゴ。苦手はフリル、レース、花もよう、すべての乙女チックなもの。現在、雑誌「婦人公論」「週刊新潮」書評子。月刊専門誌「競艇マクール」に批評コラムを連載中。競艇同人誌「確定!!」陰の編集長、通称かげちょう(いちばんエラい人の意)。競艇の普及活動に粉骨砕身する競艇伝道師。




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