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文:大西正夫
 
第36回 :SADという悲しき社会不安状態から脱するために

  前回、比較的新しい概念である「社会不安障害」(Social Anxiety Disorder=SAD)という精神疾患を取り上げ、あがり症など対人ーー社会を意識する度合いが病的に強い慢性疾患であることを紹介した。さらに、単なる性格や気の持ちようといった次元とは異なる、治療が必要な病気であり、最近は薬物療法が有効であることが明らかになっている、と伝えた。治療に使われる薬物は、略称SSRIで知られる選択的セロトニン再取り込み阻害薬(Selective Serotonin Reuptake Inhibitor)である。
  SSRIはもともと欧米でうつ病の薬として開発され、日本に入ってきたのは世界に遅れること十数年、一九九九年だった。現在、日本では  種類のSSRIが発売されている。この薬は、三環系、四環系と呼ばれる従来の抗うつ薬に比べ副作用が対照的に少ないため、医師が処方しやすくなったこともあり、年々マーケットを拡大している。全世界での売り上げは二兆円を超えており、その七割はアメリカとカナダ、二割がヨーロッパ、残りがアジアとされるが、日本ではざっと八百億円なので、アジアの大半は日本が占めていることになる。
  うつ病患者の脳の内部では、アミンと呼ばれる神経伝達物質の働きが低下していることはよく知られている。アミンにはドーパミン、セロトニン、ノルアドレナリンの三種類があり、いずれもその働きが低下すると、うつ病などを引き起こすと考えられている。一般に、喜びや快楽に関係するドーパミン、恐れや驚きを司るノルアドレナリンからの情報をコントロールし、精神を安定させる役割を担っているのがセロトニンという位置付けだ。つまり、セロトニンが不足すると脳内バランスが崩れ、快楽から抜け出せずにさまざまな依存症に陥ったり、感情の抑制が利かなくなってうつ病にかかったりする、とされている。
  セロトニンが不足するというのは、いろいろな不安や緊張、ストレスなどがかかってくると、セロトニンが出動し続けて減ってしまい、いざという段に来られなくなってしまうイメージを思い浮かべるとわかりやすい。前回登場してもらった山田和夫・和楽会横浜クリニック院長の表現によれば、「早く来ればよいのに来ないので、絶えずピリピリした状態が続き、抑うつ、不安、緊張状態を来してしまう」。
  それでは、と単純に考えれば、セロトニンを増やせばよいことになる。だが、トリプトファンというアミノ酸の一種ではあっても、食べても飲んでも脳の中では増えない。まして、ただ増やしても異常な心理状態の昂進に追いつくとも思えない。では、セロトニンを消費する部位としての神経回路で、セロトニンを抑え込んでしまってはどうだろうか。それが、シナプスに蓋をして、セロトニンの不足を来さないようにする薬物としてのSSRIというわけだ。SSRIと同世代の抗うつ薬として、SNRIーー選択的ノルアドレナリン再取り込み薬があるが、これも同じ発想によるものだ。
  うつ病によく効く薬として開発されたSSRIの応用範囲を広げた先の一つが、社会不安障害(SAD)である。日本では、ドイツのソルベイ製薬が開発し、九九年にうつ病と強迫姓障害(OCD)の治療薬として発売を承認されたフルボキサミン(一般名)が二〇〇五年十月、SADの追加適応認可を受けたが、この薬の作用メカニズムと効果を、やはり前回登場してもらった精神科医の田島治・杏林大学教授の話を基に、簡単に説明しておく。ちなみにフルボキサミンは、アステラス製薬と明治製菓の二社から発売されており、前者の商品名がルボックス、後者はデプロメール。
  神経回路の一つに、アーモンドのような形をした扁桃体という部位があり、そこが興奮すると恐怖反応が生じて、体がすくむ、こわばる、心臓がドキドキする。そんな体験が度重なるうちに、恐怖反応を条件付けして学習し、扁桃体の神経の過敏姓が増していく。フルボキサミンは扁桃体に作用して、SADの主症状である恐怖感の過剰な発生を抑え込むが、長期間の服用によって扁桃体の神経そのものが過度に興奮しなくなるという持続的な脳の変化をもたらす。その結果、こわばり、動悸、不安などを感じさせるさまざまな場面を避けてしまうという行為がかなり減少するという。
  田島教授は、従来のSAD治療薬として用いられてきた代表的な薬物の抗不安薬とフルボキサミンの働き方をこう表現している。前者は、脳内のギャバ(γ−アミノ酪酸=ギャバ)の受容体に直接作用し、ちょうど自動車のフットブレーキを掛けた時のように、比較的速攻で一時的に神経の興奮を抑える。これに対し、後者のフルボキサミンは、セロトニン神経を介して扁桃体の過敏性を抑えるため、まさにエンジンブレーキが効くように徐々に効果を発揮していく。
  ソルベイ製薬と明治製菓が共同で実施したデプロメールの臨床試験結果によれば、五十二週間の長期服用による治療成績として、「非常に良くなった」26・8%、「良くなった」38・1%を合わせると、ほぼ三分の二が自覚症状の改善を認めている。「やや良くなった」は21・1%、「変化なし」が12・7%、「やや悪くなった」は1・2%に過ぎなかった。
  フルボキサミンを処方してきた田嶋さんは、治療効果として最も重要なことは、「単に自覚症状がなくなるだけでなく、実際に生活する場面で困る度合いが少なくなり、ご本人の生活や人生が変わるということです」と指摘する。「自己嫌悪がなくなり、人生が変わりました」という患者の声を紹介しながら、「私も精神科医として多くの人を治療していて、SADの患者さんがいかに多く、これほど困っていて、治療するとこれほど良くなるのかという事実に驚いています」と語るのだ。
  一生涯にSADにかかる有病率は、前回記したように日本も欧米も13%前後というデータもある。程度の差こそあれ、うつ病に負けず劣らず多い数字だ。潜在患者は、目の前のあなた自身、隣の彼や彼女もそうかも知れない。だが、SADの悩み、苦痛を抱えているにもかかわらず、医療機関を訪れない人たちのほうが圧倒的に多い。先進国での受診率は3%に過ぎないともいわれる。SSRIで治癒可能、あるいは改善されるのであれば、受診し、服用してみる価値はあるかも知れない。
  取材した何人かの精神科医は、SSRIはうつ病よりもSADのほうに効果が高いと語った。前出の山田医師は、「実は一番治りやすい、フルボキサミンによって一番治療しやすい病気がSADです」と断言する。日本では現在、SADの適応はソルベイ製薬のフルボキサミンだけだが、世界では数多くの国で使われている。例えば、世界のビッグファーマ(製薬大手)のグラクソスミスクライン社(GSK社=英国)のパロキセチン(商品名パキシル)は、80か国以上でSADを発売している。そのGSK社も、SSRI販売の世界戦略の一環として、SAD市場の有望性を見込んだ日本での臨床試験を進めており、現在は最終ステージである第III相(フェーズ3)に入っている。
  うつ病からスタートしたSSRIは、セロトニンがかかわる周辺の精神疾患に触手を広げつつある。GSK社の場合、世界的にはうつ病とSAD以外に、強迫性障害(OCD)、全般性障害(GAD)、外傷後ストレス障害(PTSD)、パニック障害(PD)、月経前不快気分障害の適応を得ている。今後、アルコール依存症や依存性行動といった領域にも処方される可能性がある。そうそう、男性の性機能障害の代表の一つである早漏にSSRIが使われ、一定の効果を上げていることは、意外に知られていない。
  いずれにせよ、SADという不安障害は、性格由来のものではなく、慢性疾患ととらえることにより、SSRIを使った治療で治癒する可能性が高いことが判明しつつある。あらゆる種類の社会恐怖、対人恐怖という名の恐怖(不安)におびえ、縮こまり、人前から背を向けていた人たちにとって、この薬物治療は試してみる価値があるように思える。製薬企業のマーケット戦略ではあっても、安全性に問題がない限り、その有効性によって人間関係や社会生活の改善、あるいは新たな関係性を結べるのでれば、SSRIはその人の生活の質を高め、生命存続の質をも保てるのではないだろうか。SADに思い悩む日々を送っている人たちに、そんなエールを送りたい。


 


2006年3月14日更新
(隔週火曜日更新予定です)



Profile
大西正夫(おおにし・まさお)

1946年生まれ。北海道出身。71年北海道大学文学部英文科卒業。同年読売新聞社入社。水戸支局を経て科学部。2000年から調査研究本部。環境、医学医療を中心に科学系分野を担当。席を温めるのが性に合わず、いつも出歩いている。ソフアや畳の上、電車の中で海外ミステリー、エスピオナージュ(スパイもの)を読み耽るのが趣味の一つ。P・D・ジェイムズ、ジョン・ル・カレは古くからの枕頭の書。4年前から凝っているのが、オセアニアの森林駆け歩き。
 著書は、「火薬が心臓を救う」(共著、ダイヤモンド社)など。訳書に、「失われた絆 アルツハイマー病の母の記録」(読売新聞社)、「エイズ 死ぬ瞬間」(共訳、読売新聞社)、「カミング・プレイグ 迫りくる病原体の恐怖」(共訳、河出書房新社)など。このほか、調査研究本部が発行する季刊誌「調研クオータリー」に、海外植林やパプアニューギニア開発と環境、二酸化炭素排出量取引、ケナフといった環境問題、医学研究における個人情報保護やクローン人間のような生命倫理、人工臓器、人獣共通感染症などをテーマにした論稿を定期的に執筆。




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