パブリディ
カレンダーボーイ1963

第1話 「また明日」


  夢だと思っていた。
  あの頃の自分の部屋で目を覚まして、あぁ夢なんだなと思って、あの頃の家族と一緒に朝ご飯を食べてもう小さくなってきていたランドセルを背負って学校に向かった。これは、夢だ。随分懐かしい夢を見ているんだなぁと思っていた。
  それが、急に現実感を伴ってきたのは小学校の教室に入ってからだ。たとえば、それまで無音のテレビ画面を観ているような感じだったのに、急に音声が入ったような感覚だ。わっ、と騒めきが耳に飛び込んできてまるで水を掛けられたように身体が反応した。それを見て、眼の前の男の子が不思議そうな顔で覗き込んできた。
「どした?」
「え?」
  誰だ、この男の子は。いや、それより私はどうしてこんな小学校の教室にいる? そう、ここは教室だと身体が理解した感じがした。何と言うか、それまであやふやだった自分の身体が急に実在感を持った。これは、夢ではないのか?
「なんかずっとボケッとしてるぞイッチ」
  イッチ。
  その呼び方は小学生のころの私のあだ名。その瞬間に突然記憶の奥底から話しかけてきている男の子の名前が跳ね上がるように浮かんできた。
「ゴンド!」
  あだ名はゴンド。本名は権藤。そうだ、権藤健。クラスでいちばん身長が大きかった男。それなのにいちばん気が弱かった男。そんなことを覚えていた自分に驚いた。
  ゴンドは大げさに腕を振り上げてびっくりした表情を見せる。それは、ひょうきん者のゴンドがよくやる、いや、やっていた仕草だ。
「なんだよぉ大声出して。ヘンだぞオマエ」
  そこで、ベルが鳴った。思わずうわっと声を上げそうになった。授業開始の始まりのベル。何十年ぶりなんだ。三十年? いや四十年? 皆が、そう、今まで気づかなかったクラスの皆が一斉に動き出して席に着く。
  ちょっと待て、これはいったい何だ? 何の冗談だ?
  誰に向けるでもなく上げた自分の手が視界に入る。手だ。確かに自分の手だ。実体を伴っている手。しかし、どうもそれは小さい。幼い手だ。まだ肌がツヤツヤして、しみが出てきた自分の手とは違う。握ってみる。開いてみる。夢でそんなことを実感するなんてことがあるだろうか?
  教室の引き戸がガラガラと音を立てて開いて、誰かが入ってきた。
「佐藤先生!」
  思わず叫んで立ち上がってしまった自分がいた。担任の佐藤先生が目を丸くして私を見た。
  いや、私と、もう一人。同じように立ち上がって叫んだ男子をかわりばんこに見た。
「なんだ三都、安斎も。どうしたんだ?」
  顔を見合わせた。
  安斎。
  そうだ、お前と私は小学校の同級生だったよな。中学も一緒で高校と大学は別々だったけどその後再会した。
  今は、同じ職場で働く、同僚だ。

  授業をまるで聞いていなかった。いや聞いてはいたのだけど聞くまでもない内容だ。当然だろう。自分のランドセルに入っていた教科書を広げると、それは小学校五年生の教科書だった。五年生の授業の内容を理解できないはずがない。これでも今は大学の教授なんだ。そう言えばこの頃、五年生の頃の私は将来何になろうと夢描いていたんだろう?
  安斎がちらちらと私を見ていた。早く授業が終わらないかという顔をしていた。それは私も同じだった。
  これは、いったい何なのだ?

「屋上屋上!」
  授業終了のチャイムが鳴ると同時に安斎が席を立って私のところに駆け寄ってくると、腕を掴んで走り出した。ドアを出ると正面に階段があってそこから屋上に行ける。そうだ、と思い出していた。忘れていた小学校の様子が、どこになにがあるのかがどんどん甦ってくる。
  屋上に出ると走って真ん中まで行った。そこで立ち止まると二人で顔を見合わせた。
「三都」
  安斎が私の名前を呼ぶ。その後何かを言うのをためらったのがわかったので、先に口を開いた。
「安斎」
「おう」
「奈美枝さん、元気か」
  安斎の奥さんの名前だ。安斎がやっぱりか! と叫んだ。
「オマエ、うちの大学の三都教授だよな」
「そういうオマエは、うちの大学の安斎事務局長だな」
  なんでかわからないけど思わず二人で握手してしまった。そう。ぼくたちは、いや私たちは職場で再会した。当時は講師と事務局員として。そして今は教授と事務局長という立場にいる。
  それなのに。
  ぼくの、私の眼の前に居る安斎は、小学生のときの安斎武史だ。タケちゃんだ。懐かしい、あの顔と姿をしている。ということは、安斎の眼の前にいるぼくも小学生の三都充なんだろう。
  信富小学校五年二組のクラスメイトだ。
「これは、なんなんだよ? 夢じゃないんだよな?」
「どうも、夢じゃないらしい。つねってみようか?」
  お互いにお互いの頬をつねってみた。かなり痛い。
「どういうことなんだよ! 三都!」
「大声を出すな。私にだって理解できない」
「お前腐っても大学教授だろ? 説明してくれ!」
「腐ってもは余計だよ」
  説明と言われても。
「あれしか思いつかないだろう」
「あれって」
「あれだよ」
「あれか」
  私は頷いた。誰でも知ってる。それこそ小学生でも。
「タイムトラベルだ。あるいはタイムスリップ。そう言っていいなら、二○○六年で四十八歳になった私たちの精神だけが、心だけが、あるいは意識だけがこの時代の自分に飛んできているんだ」
「小学五年生の自分にか」
「そうとしか思えないよ」
「なんでだよ!」
  私は口ごもった。
「安斎よ」
「おう」
「それを説明できたら、きっとノーベル賞をもらえる」
  どうしようもなかった。休み時間は十分しかなく何も結論は出なかった。お互いの頭を叩き合ったり、思い切って回し蹴りをそれぞれの尻にしてみたりしたけど、ただ痛いだけだった。
  現実だった。
  新たに判明した事実は今日が一九六八年の六月十五日の土曜日ということで、その日付だけは一致していた。一致と言うのは、前日、私たちは二○○六年の六月十四日は確かに四十八歳の意識と肉体のままで、それぞれに自分の部屋のベッドと布団で眠りに就いたんだ。それは確かだった。
「寝て起きたら、過去の世界かよ」
  二人で空を見上げた。青空だ。きっと二○○六年の空よりずっときれいな青空。

  土曜日の授業は昼で終わり。そういえばこの頃は土曜も学校があったんだと思い出していた。帰り道、私と安斎は二人で並んで歩いていた。すっかり忘れていた小学校から家までの帰り道。そうだ、こうやって校庭のところから出て、住宅地の中を抜けていくのが私たちの帰り道だったんだ。
  覚えている。角には畑があった。小さな川には木の橋が架かっていた。そこから私たちはよく石を投げて遊んでいた。
  一九六八年。昭和四十三年。
  私たちは、ぼくたちは、小学五年生だったんだ。
「懐かしいよな」
「うん」
  あの頃のように、この木の橋の欄干に寄りかかって川の流れを見つめていた。
「こんなことがなきゃ、思い出しもしなかったぜ。こんな光景」
  ぼくも安斎も、実家は既にこの辺りから引っ越している。そうなんだ、二人ともこの辺には小学生の頃しか住んでいなかったんだ。
「クラスのみんな、思い出したか?」
  訊いたら安斎は苦笑いした。でも、小学五年生の顔なので妙に小憎らしいガキにしか見えなかった。
「何人かはな」
「ぼくもだ」
  二人で笑った。
「オマエ」
「なに」
「さっきから口調がだんだんガキみたいになってるぞ。なんだ〈ぼく〉って」
「そういうタケちゃんは、あの頃のまんまなんだなって思い出したよ」
  そうなんだ。タケちゃんは、あの頃からずっと変わっていなかった。
「タケちゃんってか」
  そう言って、今度は子供っぽく笑った。
「そうかなぁ、イッチ」
「そうだよ」

  いくら話しても、どうしようもなかったんだ。タイムトラベルなんてものがどうして起きてしまうのか、それも意識だけが小学生の時代に戻るなんて。だから、とりあえずは家に帰るしかないなって決めた。なんといっても、この時代にぼくらが帰るところはそこしかないのだから。
  家に帰ってみよう。懐かしいあの家に。
  時間が経てば何かがわかるかもしれない。ひょっとしたら寝て起きたら現実に、二○○六年に戻っていて、やっぱり夢だったのかと思うかもしれない。
  住宅地の中の細い道を、そう、ここら辺りはまだ舗装道路じゃなくて土のままの道。そこを抜けて舗装道路に出たところで、ぼくとタケちゃんは右と左に別れる。
「じゃな」
「うん」
  夢でも現実でも、どっちにしてもまた二人は会うんだ。
「また明日!」
  そういう言葉が、自然に出てきた。しかもごく自然に語尾にビックリマークが付くぐらい元気に。そして、なんだか胸の奥が熱くなった。
  また明日。
  そう、ぼくらはこの頃、その言葉を何のてらいもなく口にしていた。また明日会おう。遊ぼう、学校で。
  何の不安もなく、ただただ友達との日々が愉しかった時代。
  ここは、そういう時代だったんだ。

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