パブリディ
カレンダーボーイ1963

第47話 「武者震い」


  部屋の真ん中にあるストーブの上でやかんが音を立てていて、姉さんが水を注ぎ足しに下に降りていった。時計は十二時を回っている。
  この頃のぼくたちみたいな小学生は、この時間には寝ているのが普通だ。ぼくも毎日九時には寝なさいと言われる。休みの前の日とかは別だけど。姉さんは漫画を堂々と描けるようになってからはやっぱり少し遅くなっているみたいだ。
「あら」
  ベッドから起き出して椅子に座っていた僕を見て姉さんがちょっと驚いた顔をした。やかんをストーブに置いて言った。
「眠れないの?」
「いや」
「どうしたの?」
  姉さんも自分の椅子に座った。キィと音を立てる。父さんはきっともう寝ている。母さんもさっき姉さんに早く寝なさいよと言ってきたから、もう布団の中だ。
「話があるんだ」
  きっと姉さんはもう察していたんだ。ぼくの顔つきから。
「なぁに?」
  椅子を回して、姉さんはぼくと正面から向き合った。
「お願いが、二つある」
  そう言った途端にぼくの身体はぶるっと震えた。これが武者震いってやつかと思った。
「お願い」
「うん」
  姉さんは、こくんと頷いた。
「言ってみて」
「ひとつめは、姉さんのお金をぼくに貸してほしいんだ。デビュー作のギャラを全部」
  ちょっとだけ、姉さんの眼が丸くなった。
「それを使って、ぼくは東京に行くんだ。あることをやりに。でもそれは父さんにも母さんにも、姉さんにも言えない。だから、ぼくは家出をすることになる。きっと父さんと母さんは大騒ぎすると思うけど、それを姉さんに止めてほしいんだ」
「止める」
「ぼくは必ず帰ってくる。だから警察とかにも知らせないで大騒ぎしないでほしいって」
  わかってくれるとは思っていたけど、いざこうやって話をしてみると不安になった。姉さんはなんて言うんだろうか。
  しばらくぼくの顔をじっと見ていた。
「それは、一人で行くの?」
「ちがう。タケちゃんも一緒なんだ」
「タケちゃんも?」
  うなずくと姉さんは少しだけ首を傾げた。
「二人だけで東京に行けるの?」
「協力者はいる。誰かは言えないけど、ぼくたちを守ってくれる大人の人」
  また少しだけ目を丸くした。
「ちゃんと、考えているのね?」
「うん」
「ずっと準備をしてきたんだ?」
「うん」
「どうしても、行かなきゃならないのね?  東京へ」
「そうなんだ」
  行かなきゃならない。ぼくの、三〇年以上後悔し続けた気持ちにケリをつけるために。ぼくは行かなきゃならない。もちろん、タケちゃんの家族を守るためにも。未来のぼくの学生たちの学舎を護るためにも。
  姉さんは下を向いて顎に手を当てて考えていた。
「何日ぐらいなの?」
「十二月四日に行こうと思う。帰ってこられるのは、きっと十二月の半ば」
「二週間ぐらいなのね」
「そうなると思う」
「絶対に帰ってこられるのね?」
  ちょっとだけ、迷った。
「たぶん」
「たぶんなの?」
「ぼくの考えでは間違いなく帰ってこられると思う。でも、ひょっとしたらってこともある。何が起こるかわからないか」
  そう言うと姉さんは唇を一度引き締めてから言った。
「それじゃ、駄目」
「駄目?」
「必ず帰ってくると約束して」
  眼が、真剣だった。
「何があっても、みーちゃんもタケちゃんもここに帰ってくるの。絶対に、何があっても。そういう気持ちを持っていないと、きっと駄目なんだと思う」
  一度言葉を切って、姉さんは少しだけ笑った。
「約束して。必ず帰ってくるって。そういう気持ちで行くって。それなら、私は何があってもみーちゃんを守る。みーちゃんがやろうとしていることを精一杯応援するために、父さんや母さんを説得してみせる」
  うれしくて、涙が出そうになった。
「わかった。約束する」
「言葉に出して」
「帰ってくる。タケちゃんと必ず。絶対に帰ってくる」
  もちろんガンガンも一緒にだけど、それは言えなかった。姉さんは今度は大きくニコッと笑った。
「わかった。まかせといて」
  そう言ってくれると思ってはいたけど、やっぱりちょっと不安になった。
「何も訊かないの?」
「うん」
「どうして?」
  姉さんはふふっと笑ってくるっと椅子を回して一回転した。姉さんの椅子とぼくの椅子はお揃いの色違いだ。姉さんは赤でぼくは青。
「だって」
「だって?」
「私、わかっちゃったんだもの」
「わかったって」
  一瞬、ひやりとした。姉さんは何もかも知ってしまったんだろうか。
「みーちゃんは、私の弟は天才になったんだって」
「天才?」
「それまでは普通の男の子だったのに、ある日を境にして急に天才になってしまったの。私の考えなんか及ばないようなものすごい天才。だから、私はみーちゃんの言うことをきいて、みーちゃんが思う通りにできるようにしてあげる。それが私の義務なんだって、思ったの」
  そう言って姉さんは自分で確認するように頷いた。

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