パブリディ
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第9回
「あなたもソトマイヨールになれる!」

  衛生害虫と呼ばれる生き物たちがいる。ゴキブリもそうだしハエもそうだ。カもノミもダニもシラミもそうだ。これらの生き物は病原体となるウィルスや細菌などを運んで人に病気を感染させることがあるので、衛生害虫と呼ばれる。正確には不衛生害虫だと思うのだが、ともかく慣わしとして衛生害虫と呼ばれている。ここで質問である。上に挙げた6種類の(不)衛生害虫のうち、仲間はずれはどいつかわかるだろうか? 至極曖昧な問いなので、答えはいろいろと考えられる。この中では極端に大きくてすばしっこく走るからゴキブリというのも答えになるし、こいつだけかなでも漢字でも1文字で表されるからカという答えもありである。だが、生物の分類学に根拠を求めるならば、正解はダニである。なぜなら他の5種類はすべて昆虫類なのだが、ダニだけは違うからだ。ダニは4対8本の脚を持つクモ形動物なのだ。したがって、ダニについていえば、不衛生害虫という呼称も正しくはない。厳密には不衛生害節足動物と呼ぶべきなのである。
  さて、ダニはクモ形動物なので翅を持たない。それはまあ当然なのだが、実はノミもシラミも翅を持っていない。翅を持っていないのにれっきとした昆虫なのである。無翅昆虫と呼ばれる。ノミもシラミも寄生虫である。通常は宿主(寄生を受ける側の動物)にくっついて移動している。もっぱら宿主の体液を吸って生きている。だから翅でもって移動する必要がないのである。居候生活に特化したある種うらやましい生き方だとも言える。
  かつてヨーロッパには、居候生活を謳歌しているノミに対して不公平だと考えた人がいた。おまえさあ、オレが血を分けて養ってやってんだからさあ、ちったあオレの役にも立ってくれよ、とノミに見返りを求めたらしい。そして、ノミのサーカスを考案したのである。物の本によるならば、ミニチュアの荷車を作って引かせたり、服を着せて踊らせたりしたそうである。この見世物で入場料が取れれば、団長の人間としてはウハウハに違いない。多少の手先の器用さは必要だろうが、初期投資といってもサーカスの備品を作る材料費なんてたかが知れているし、日々の食費は自分の腕を差し出して血を吸わせるだけでよいのだから。もっとも――ワタシは経験がないのでよく知らないが――ノミの刺し跡は非常に痒いらしいので、痒み止めは必須アイテムとなる。あと、ノミにはペストを媒介する種類もあるので、生命保険にも入っておいたほうがよいかもしれない。痒み止めと生命保険の備えがあれば、人とノミは共生関係を築けるのである。
  ノミのサーカスの話を続けよう。いろいろな芸のうちでも、ノミが十八番にしているのがジャンプである。ノミは翅を持っていないので飛ぶことはできないが、強力な後脚で跳ぶことはできる。ノミにジャンプをさせて、バーを越えさせる芸が実際にあったという。
  そのジャンプ力が半端ではない。なにしろ、ノミは体長の約200倍の距離を跳び、約100倍の高さまで達することができるというのだから。身長170pの人間に換算するならば、幅跳びで340mをクリアできる計算になる。マイク・パウエルの世界記録は9m95pであるが、これをはるかにオーバーして、もはや幅跳びというよりも400m障害の世界記録を狙えるレベルだ。高跳びのほうも170mを狙える計算になる。霞ヶ関ビル(147m)の頂上で全盛期のセルゲイ・ブブカが棒高跳びをしても、まだ及ばないのである。もっともこんな高さまで人間が跳んだとしたら、着地が命がけである。よほど弾力に富むマットを敷いておかないと、間違いなく即死である。
  体長の100倍もの高さに跳びあがってもノミの命に別状がないのは、体重が極端に軽いからである。エネルギー保存の法則が成り立つ地上では、地面に衝突するときのエネルギーは落下地点の位置エネルギーに等しい。初歩的な物理の公式を思い出してほしい。位置エネルギーEは、
  E=mgh (mは質量、gは重力加速度、hは高さ)……(1)
  で表されるので、同じ高さからなら体重が軽いほど、落下時の衝撃は小さいわけである。例えば体重30gのハツカネズミであれば、体重60kgのヒトの2000分の1の衝撃しか受けない。これならばビルの屋上から落下しても無事だが、体重600sのウマはぐしゃっと潰れてしまう運命にある。
  ノミは体長の100倍もの高さを越えられるというのは事実だが、絶対的な高さでいえばたかだか数10cmのものである。ヒトはといえば、ハビエル・ソトマイヨールの走り高跳びの記録が2m45cmで、これが道具を使わない人類最高の跳躍の高さだといえる。では、ソトマイヨール(でも誰でもよい)が跳躍する場面を頭の中に思い描いてみてほしい。競技場の観衆が見守る中、呼吸を整えた走り高跳びの選手は最初の数歩をゆっくりと踏み出す。そして徐々に助走の速度を増していき、踏み切り地点で最高スピードにのせる。利き足で地面を力強く蹴ると同時に、体全体を斜め45°の方向へ引き上げ、体を浮かす。賽は投げられた。こうなるとあとは体の一部がバーに触れないように注意することと、着地の際にどういうガッツポーズをとるか考えるくらいしかすることはない。
  いま頭の中で再現してもらったように、跳躍のエネルギーは、化学エネルギー(ATP)を筋力に蓄えて変換することで発現される運動エネルギーである。運動エネルギーも筋力も体重に比例するので、跳躍エネルギーE'は体重に比例すると考えられる。
  E'=km (mは質量、kは比例定数)……(2)
  再びエネルギー保存の法則から、高跳びの最高到達地点での位置エネルギーは跳躍エネルギーと同じであると考えられるので、@式とA式から、
  mgh=km 
  よって、h=k/g が導き出される。kもgも定数なので、高跳びの最高到達地点の高さhは一定ということになる。
  そんなはずはないとお思いであろうか。しかし、このことは実証されている。ぴょんぴょんと跳躍するのが得意そうなカモシカでも、跳びかかって獲物を襲うのが得意なヒョウでも、もっとずっと小さいネコでも、フリスビーをフライングキャッチするときくらいしかあまり跳ばないイヌでも、跳躍時の最高到達地点は2〜2.5mの間なのだ。つまりどんな動物もソトマイヨールと大差ないのだ。要するに重力の支配力はそれほど強い。(ちなみに、ノミが2mも跳べないのは、跳躍時に使用する筋肉のしくみが違うことと、空気抵抗が大きく作用するためである。)
  このことはまた、別の新たな可能性を想起させる。十分に筋力の発達した人間であれば、誰でもソトマイヨールになれる可能性があるわけだ。日本人からもソトマイヨールが出る可能性があるのだ。跳躍というと長身のマサイ族を思い浮かべがちだが、短躯のピグミー族だってソトマイヨールになれるかもしれないのだ。だからといってピグミー族のバレーボールチームやバスケットボールチームが、すぐに世界の強豪と伍して戦えるとは思えない。なぜならそれらの球技に必要とされる高さは、跳躍による高さに身長と手の長さを加えた合計の高さだからだ。
物理のルールは動物にも人間にも公平なのだが、人間の作ったルールは不公平なものなのである。



2007年1月30日更新

●プロフィール●

鳥飼否宇(とりかい・ひう)
1960年福岡県生まれ。九州大学理学部卒業後、出版社勤務を経て現在、奄美大島 在住。
「奄美野鳥の会」にて鳥さんのフィールドノート、ほぼ日刊イトイ新聞にて「ヒウおじさんの鳥獣戯話。」を連載中。著書に『樹霊』『本格的  死人と狂人たち』『昆虫探偵  シロコパκ(カッパ)氏の華麗なる推理』『痙攣的  モンド氏の逆説』『中空』(第21回横溝正史ミステリ大賞優秀賞受賞)など。

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