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第六回 連合広告
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入社しばらくして、飛び込みを繰り返している内に夏が近づいてきた。その時期にはM広告社の新人に恒例となっている仕事があった。
なにかというとM新聞が出している英文紙の仕事である。英字新聞の広告というのは、通常の広告以外に連合広告という、いわばお祭りの協賛提灯のような仕事があった。
というのも英文紙は普通紙とは違い、特殊な性格の新聞であるために、おいそれとは広告が集まらないのである。そこで知恵を絞って広告をもらう必要がある。
そのひとつが連合広告でイベントを新聞紙面で企画し、記事にする代わりにそこに名刺代わりの広告を出稿してもらうのである。それをたくさん集めて、ひとまとめで東京と大阪の紙面を埋めるのだ。
では英字新聞がどんなイベントを企画するか、というと分かりやすいものは各国それぞれの独立記念日、つまりリパブリックデイをお祝いするのである。当時の大使からお言葉を頂戴したり、各国の状況などを記事にして、その下が広告。
そしてM広告社の新人が請け負っていた夏の連合広告は通称インド連合と呼ばれるものだった。その名の通り、関西在住のインド方面の方々に広告を取って回るのである。
なぜなのか、関西には古くからインド方面の方が暮らしている歴史があり、小さな繊維の貿易商やらインド料理のレストランなどが多い。
僕はひとつ上の先輩からその仕事を引き継ぎされて、M原さんという英字新聞の営業マンの方と今年もよろしくと大阪の街をあちこち回ることになった。
M原さんはM新聞社の英字新聞で、大阪ではただ一人の営業マンである。新聞社の上の階にある英字新聞の部屋には他に広告と記事を統括するデスク、整理担当の女性。あとは営業のM原さんと記者という、小さな所帯であった。
M原さんはラクビーか柔道でもやっていたのかと思わせる巨漢で、そこに黒縁のエボナイトの眼鏡をかけ、使い込んだ厚い黒のアタッシュケースを下げて営業に回る。
のっしのっしと大阪の街を行くその姿は、セイウチかトドが背広を着ているようである。なにかあればその体躯でぺちゃんこにされそうだが、いたって穏和な方で、そういった場面にはついぞ遭遇しなかった。
朝に僕がM社に出勤し、タイムレコーダー押した足で、英文紙の部屋に顔を出すと、今や遅しとM原さんが待っており、「ではアサグレ君、今日はこれだけを回る」と地下鉄で出発する。
回る先は昨年、出稿してくれたお得意さんで新聞紙面から切り抜かれている。午前三軒、午後三軒といった感じだったか。それまでそんなにきちんとしたセールスをしたことなどなかったので、こちらはついていくのが精一杯だった。
午前中は本町や船場方面にある繊維の貿易会社に顔を出し、昼下がりは休憩中のレストランに当たる。二人でペアでそんな営業をして回るのだが、あるレストランに昼下がりに出かけると、ドアで声をかけたが、待ってくれと誰かが答えたものの、なかなか人が出てこない。
で、しばらくすると奥から日本人女性が現れた。それがどことなく、髪をつくろうような仕草で、昼間からなにをしてるんやと僕がM原さんを見ると、M原さんは泰然自若、どこ吹く風と用件を切り出すのだった。
あるいは船場の繊維貿易の会社にいくと、そこは社長のインドの方以外はすべて女性、しかもうら若き乙女ばかりというハーレムのような会社もあった。以降、僕はその会社に仕事のあるやなしやを確かめるフリをして頻繁に顔を出すようにしたりした。
僕の実家には、すぐ近くに関西のキリスト教の総本山のような施設があり、その宣教師の息子などと幼なじみだったし、大学時分にやっていた音楽が、アメリカの民謡であったために、なぜかブローケン・イングリッシュを少し話すことができた。
加えて大学時分にはアルバイトで神戸の百貨店で電気製品を売ったり、洋総菜店に勤めた関係もあり、観光客や在日の海外のお客さんを相手にすることが多かった。
そこでM原さんが日本語で会話するところを、ところどころ英語で補佐するような役割に自然と分担ができ、またM原さんもいつもは一人で仕事をしているところを若いとはいえ、助手ができたのが助かったのか、なぜか僕を可愛がってくれた。
ところで関西人の僕から見ると、一言でインドというと皆インドの方と思えるのだが、実はインドの方とインドネシアの方がおり、この二国は歴史的経緯で折り合いが悪いのだとその仕事で初めて知った。
そこがまたM原さんと僕の腕の見せ所で、インドネシア方面はこれだけ集まってますよと語れば、インドも負けるわけにはいかないのである。この日こそは、本当は我々の独立記念日であるのだというプライドがあるのである。
そうこうして大阪のあちこちのインド関係者を回っている内に、どうしたことか昨年を上回る出稿を頂戴できた。
そもそも前例のある仕事だから、新規をセールスしても、いかがわしそうに見られないし、目的もはっきりしている。飛び込みよりはずっと分がいいセールスだったせいだろう。セールスにも張りが出るというものである。あとは掲載後の集金は代理店の役目、僕の仕事となる。
で、多くの出稿を祝ってM原さんは仕事の最終日の夕方、「アサグレ君、打ち上げしよう」と誘ってくれて、なんとお寿司をごちそうになったのである。
それまで僕は日々の仕事が終わると、憂さを晴らしに出かける先といえば、酒屋が夕方から始める立ち飲みカウンターが関の山。いわゆる角打ちだ。よくてもせいぜい立ち食いの串揚げでビール。
社の先輩陣がよく顔を出した立ち飲みカウンターは大阪駅前第一ビルの一階にあるウエダ商店、その先の正起屋であった。仕事がはけて、まだ西日のきつい夏の暑さの中で、わさわさと虫のように集まるサラリーマンに混じり、ダークダックスでお願いしますの声に従う。
ダークダックスというのは狭いカウンターの角打ちのために、混んでくるとあのコーラスバンドの合唱姿勢のように肩を斜めにして並ぶ体勢のことである。ここで先輩陣は魚肉ソーセージやら冷や酒を飲み、決まってこぼす愚痴は給料のこと。
「ほんまにうちの月給は安いなあ。どっか別の会社に移ったろか」
「A新聞のA広告社がうらやましいで」
「なんせあそこは新聞の部数がええからなあ。広告もようけ出るもんな」
「まあ、そう泣きなはんな。S新聞のS広告よりはましやで」
「そやなあ、Sよりはましか。Sにだけは転職せんとこ」
などと小さな優越感に酔って、その日の憂さを晴らすのである。当初、僕もこのウエダ商店の角打ちに顔を出したのだが、やがて俺はこのまま、ここでこのような話をしながら終わるのかと鬱々と感じだし、仕事がはけると一人で別の店に行くようになった。それは帰宅コースの関係で主に梅田駅前の新梅田食堂街だった。
大学生時代、そして社会人一年生、ずっと僕は立って酒を飲んでいた。貧乏を絵に描いたようで、立って飲める所にしか行けなかったからだ。
いつかは俺も座って酒を飲みたいものだと常々、思っていた。出世すること一人前になること、その分かりやすい象徴が座るということだったのだ。
しかしM原さんとのそのときは寿司屋で日本酒。小さな寿司屋だったが、カウンターの椅子に座って酒が飲めたのである。なんだか一人前の社会人になった。ちょっとは出世したと嬉しく思えた。
僕はM広告社に勤務していた内に二年、この仕事をしたのだが、なぜだかその二回はやけに営業成績が良く、英字新聞のインド連合企画は増ページを割く恰好になった。
後日、一人で飛び込みセールスをして御堂筋を歩いていると、ターバンを巻いた方々に「あれ、あなた、どこかで見たことあるね」などと声をかけられ、周りに不思議がられる始末にもなった。
二年目となった二回目のインド連合が終わった年、数日するとT内本部長が奇妙な顔で僕をデスクに呼んだことがある。
「あのな、アサグレ君、うちは東京支社では英字新聞の手伝いをしているんやが、それと同じように大阪でも人を一人くれへんかといってきたんや。君、どないや」
とT内本部長はちょっとこちらを見直したような顔をした。おそらくM原さんからの打診だったのだろう。
僕はそのとき初めて、社会人の先輩・上司と呼べる人と出会った気がした。すくなくともあのボンクラを引き上げてやろうかという心遣いだったに違いない。
心は千々に乱れたのだが考えた末、「はい」と自らはいわず、「会社の判断に任せます」と遠回しに断ったのであった。
今から考えればその線でいくと、また違った展開があったかもしれない。しかしそれは入社二年後のこと。次の年の夏にそんな話が待っているとはつゆ知らず、僕はM原さんと寿司をつまみながら、晴れとも曇りともつかぬ心境でいた。
二週間程度のインド連合の仕事が終われば、再び野良犬飛び込みセールスの仕事の日々が待っているのだ。それはアスファルトさえ溶けていく暑い大阪の夏の陽炎に包まれること意味していた。
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2006年11月7日更新
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●プロフィール●
浅暮三文(あさぐれ・みつふみ)
1959年兵庫県西宮市生まれ。幻想小説、モダン・ファンタジーを中心に執筆。『石の中の蜘蛛』で日本推理作家協会賞を受賞。著書多数。最新刊はフィッシングエッセイ『ペートリ・ハイル! あるいは妻を騙して釣りに行く方法』(牧野出版刊)。
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